小田切秀雄編 筑摩書房 1971
一夕観
其一
ある宵われ牕にあたりて横はる。ところは海の郷、秋高く天朗らかにして、よろづの物凛乎として我に迫る。恰も我が真率ならざるを笑ふに似たり。恰も我が局促たるを嘲るに似たり。恰も我が力なく能なく辨なく気なきを罵るに似たり。渠は斯くの如く我に徹透す、而して我は地上の一微物、渠に悟達するることの甚はだ難きは如何ぞや。
月は晩くして未だ上るに及ばず。仰いで蒼穹を観れば、無数の星宿紛糾して我が頭にあり。顧みて我が五尺を視、更に又内観して我が内なるものを察するに、彼と我との距離甚だ遠きに驚ろく。不死不朽、彼と與にあり、衰老病死我と與にあり。鮮美透凉なる彼に対して、撓み易く折れ易き我れ如何に赧然たるべきぞ。爰に於て、我は一種の悲慨に撃たれたるが如き心地す。聖にして熱ある悲慨我が心頭に入れり。罵者の聲耳邊にあるが如し、我が爲すなきと、我が言ふなきと、我が行くなきとを責む。われ起つて茅舎を出で、且つ仰ぎ且つ俯して罵者に答ふるところあらんと欲す。胸中の苦悶未だ全く解けず、行く行く秋草の深き所に到れば、忽ち聽く蟲聲縷の如く耳朶を穿つを。之を聽いて我心は一轉せり、再び之を聽いて悶心更に明かなり。曩に苦悶と思ひしは苦悶にあらざりけり。看よ、喞々として秋を悲しむが如きもの、彼に於て何の悲しみか哦あらむ。彼を悲しむと看取せんか、我も亦た悲しめるなり。彼を吟哦すと思はんか、我も亦た吟哦してあるなり。心境一轉すれば彼も無く、我も撫し、貌焉たる大空の百千の提燈を掲げ出せるあるのみ。其二
われは歩して水際に下れり。浪白ろく萬古の響を傳へ、水蒼々として永遠の色を宿せり。手を拱ねきて蒼穹を察すれぱ、我れ「我」を遺れて飄然として、襤褸の如き「時」を脱するに似たり。
茫々乎たる空際は歴史の醇の醇なるもの、ホーマーありし時、プレトーありし時、彼の北斗は今と同じき光芒を放てり。同じく彼を燭らせり、同じく彼れを發らけり。然り、人間の歴史は多くの夢想家を載せたりと雖、天涯の歴史は太初より今日に至るまで大なる現實として残れり。人間は之を幽奥(ミステリー)として畏る丶と雖、大なる現實は始めより終りまで現實として残れり。人間は或は現實を唱へ、或は夢想を稱へて、之を以て調和す可からざる原素の如く諍へる間に、天地の幽奥は依然として大なる現實として残れり。其三
われは自から問ひ自から答へて安らかなる心を以て蓬窓に反れり。わが視たる群星は未だ念頭を去らず、静かに燈を剪つて書を讀まんとするに、我が心はなほ彼にあり。我が讀まんとする書は彼にあり。漠々たる大空は思想の廣ろき歴史の紙に似たり。彼處にホーマーあり、シヱークスピーアあり、彗星の天系を亂して行くはバイロン、ボルテーアの徒、流星の飛び且つ消ゆるは泛々たる文壇の小星、吁、悠々たる天地、限りなく窮なき天地、大なる歴史の一枚、是に對して暫らく茫然たり。