エックハルト 中山善樹訳 和泉書館 2008.7.20.
梗概(タブラ)
序言
第一章
「すべてのものがそれ[言葉]によって生じた」(3節)
「それなくしては、いかなるものも生じなかった」(3節)
「すべてのものがそれによって生じた。それなくしては、いかなるものも生じなかった」。
「生じたものは、それのうちにおいては、生命であった」(3、4節)
「生じたものは、そのうちにおいては、生命であった。そして生命は人間の光であった」。
「光は闇のなかで輝いているが、闇はそれを理解しなかった」(5節)
「神から遣わされたひとりの人がいたが、その名は[洗礼者]ヨハネといった。この人は光について証言するために来た」(6-7節)
「彼は真なる光であった」(9節)
「それは、この世に来るすべての人を照らしている」(9節)
「彼は自分のところに来た」(11節)
「しかし彼は彼を受け入れた人すべてに、神の子となる機能を与えた、すなわち彼の名を信ずる人々に、彼らは血によるのでもなく、肉の意志によるのでもなく、男の意志によるのでもなく、神によって生まれた人々である」(12-13節)
「言葉は肉になった。そしてわれわれのうちに住んだ」(14節)
「われわれは彼の栄光を見た。それは父から来た独り子としての栄光であった」(14節)
「言葉は肉になった。そしてわれわれのうちに住んだ。そしてわれわれは彼の栄光を見た。それは父から来た独り子としての栄光であった。彼は恩寵と真理に満ちていた」。
「始原において言葉があった」等々(1-14節)
「[洗礼者]ヨハネあh彼について証言する」(15-16節)
「法はモーセによって与えられたが、恩寵と真理はイエス・キリストによって生じた」(17節)
「かって神を見た人はいない。父の胸におられる独り子が神について語った」(18節)
「あなたはどこに住んでいるのか」(38節)
「来て、見よ」(39節)
「私に従え」(43節)
「ナザレから何らかの善いものが来る」(46節)
「フィリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの樹の下にいたときに、私はあなたを見た」(48節)
「まことに、まことに、私はあなたがたに言う」(Amen,amen dico vobis)(51節)
「あなたがたは天が開けて、神の天使たちが人の子の上を上ったり、下ったりするのを見るであろう」(51節)
第二章
「そして三日目に、ガラリヤのカナにおいて婚宴が行われた」。
「婚宴が行われた」(1節)
「葡萄酒になった水を味わう宴会の世話人のように」(9節)
「すべての人は、最初に良い葡萄酒を出す。そして彼らが酔ったときに、より悪いものを出す。しかし、あなたはよい葡萄酒を今まで取って置いた」(10節)
「イエスは最初の奇跡を行って、その栄光を示された。そして彼の弟子たちは彼を信じた」(11節)
「彼はそこに座っている商売人や両替商をみな神殿から追い払った」(14、15節)
「あなたの家に対する熱心が私を食い尽くす」(17節)
「彼は人のうちに何が存在するかということを知っていた」(25節)
第三章
「パリサイ人のうちにひとりの人がいた」、そして以下において、「この人は夜にイエスのところに来た」等々(1,2節)
「もし神がともにいなかったならば、誰も、あなたが行うようなこのようなしるしを行うことはできない」(2節)
「人は、老人であるならば、どのようにして生まれることができようか。人は自分の母の胎のなかに再び入り、生まれ変わることができようか」(4節)
「肉から生まれたものは肉であり、霊から生まれたものは霊である」(6節)
「霊は欲するままに吹く。あなたはその声を聴くが、あなたはそれがどこから来て、どこへ行くのかを知らない」(8節)
「霊から生まれたすべての人はこのようである」(8節)
「われわれは知っていることを語り、見たことを証言しているが、あなたがたはわれわれの証言を受け入れない」(11節)
「私が地上のことをあなたがたに話しても、信じないのなら、私が天のことを話したとて、どうして信じるであろうか」(12節)
「天から下ってきたもの、すなわち天にいる人の子でなければ、誰も天に上ったことはない」(13節)
「神が遣わした人は神の言葉を語る。神は限りなく霊を与えるからである」(34節)
第四章
「イエスは知ったときに」、さらに以下において、「この水を飲んだすべての人は再び渇くであろう。しかし私が与える水を飲んだ人は永遠に渇くことはないであろう」(13節)
「神は霊である。したがって神を崇拝する人は、霊と真実において崇拝しなくてはならない」(24節)
「私は、あなたがたが骨折って働いたのではないものを刈り取るために、あなたがたを遣わした。他の人々は骨折って働いたのであり、あなたがたは彼らの骨折ったものを受け継いだのである」(38節)
「彼らはその女に言った。私たちはもはやあなたの言葉のゆえに信じるのではない。私たち自身が聴いて、この人は真に世の救い主であることを知ったからである」(42節)
「主よ、私の息子が死ぬ前に、下って来て下さい」(49節)
第五章
「こののちにユダヤ人たちの祭の日があった」。
「あなたは健康になりたいのか」(6節)
「もっと悪いことがあなたに起こることのないように、けっして罪を犯さすことのないようにしなさい」(14節)
「私の父は今に至るまで働いておられる。私もまた働く」(17節)
「子は自分自身から何もすることができない」(19節)
「というのは、父は誰も裁かないのであり、すべての裁きを子に委ねたからである」(22節)
第六章
「このことの後、イエスは湖を越えて[対岸へ]行った」等々、さらに以下において、「彼らが約二十五ないし三十スタディウムの距離を漕ぎ出したとき」(19節)
第七章
「この後、イエスはガラリヤを巡っておられた」、さらに以下において、「私の教えは私のものではなく、私を遣わした方のものである」(16節)
「自分自身から語る者は自分自身の栄光を求めているのである。しかし彼を遣わした方の栄光を求める人は誠実な人であり、彼のうちには不義がない」(18節)
「私は彼を知っている。そしてもし私は彼を知らないと言ったならば、私はあなたがたと似た嘘つきになるだろう」(7・29、8・55節)
第八章
「しかしイエスは山へ行かれた」、さらに以下において、「二人の証言は真実である」(17節)
「あなたの父はどこにいるのか」(19節)
「もしあなたが私を知っているのならば、あなたがたはおそらく私の父をも知っているであろう」(19節)
「あなたがたは下からのものであり、私は上からのものである」(23節)
「あなたがたはこの世からのものであるが、私はこの世からのものではない」(23節)
「私はこの世からのものではない」(23節)
「始原である私はあなたがたに語る」(25節)
「私自身からは何もしない」(28節)
「私を遣わした方は私とともにおられ、私をひとりに見捨てておいたことはない。私がいつも御心に通うことをなすからである」(29節)
「罪を犯す人はすべて罪の奴隷である」(34節)
「奴隷が永遠に家に留まることはないが、子は永遠に家に留まる」(35節)
「あなたがたがアブラハムの子であるならば、アブラハムの業をなせ」(39節)
「罪を犯す人はすべて罪の奴隷である。奴隷が永遠に家に留まることはないが、子は永遠に家に留まる」、これに続いて次のように言われている。「それゆえに、子があなたがたを解放したならば、あなたがたは真に自由になるであろう」(34-36節)
「あなたがたは悪魔である父から出ている」(44節)
「彼が虚偽を語っているときには、彼は自分自身のものによって語っている。というのは、彼は虚偽なる者であり、その父であるからである」(44節)
「神から出た者は神の言葉を聴く。それゆえに、あなたがたは聴かない。あなたがたは神から出た者ではないからである」(47節)
「アブラハムが生まれる前に、私は存在している」(58節)
第九章
「そしてイエスは通りすがりに、ひとりの人を見られた」(1節)
「神の業が彼において明らかにならんがために」(3節)
「神は罪人の言うことを聴かない」(31節)
第一〇章
「まことに、まことに、私はあなたがたに言う、門から入らない者は」、さらに以下において、「私は、彼らが生命を持つように、豊かに持つように来た」(10節)
「私は善き牧人である」(11節)
「私は私の羊を知っており、私の羊は私を知っているが、それは父が私を知っており、私が父を知っているのと同様である」(14、15節)
「私と父とは一なるものである」(30節)
「父は私のうちにあり、私は父のうちにある」(38節)
「ヨハネは確かにいかなるしるしも行わなかった」(41節)
第一一章
「ラザロという或る病人がいた」。
「イエスはマルタとその姉妹マリアとラザロを愛していた」(5節)
「主よ、あなたがここにおられたならば、私の弟は死ななかったでしょう」(21節)、さらに以下において、「私はあなたが生ける神の子、キリストであることを信じていました」(27節)
「しかしイエスは彼女が泣いているのを見たとき、心のなかで呟いて動転された」(33節)
第一二章
「イエスは過ぎ越しの六日前に[ベタニアに来られた]」。
「もし一粒の麦が地に落ちて死ななければ、そのままに留まる。しかしもし死ねば、多くの実を結ぶ」(24節)
「この世における自分の霊魂を憎む人は、永遠の生命のためにそれを護る」(25節)
「もし人が私に仕えるならば、私に従うべきである。そして私のいるところには、私に仕える人もまたいるであろう」(26節)
「私は地上から上げられるとき、すべてのものを私の下へと引き寄せるであろう」(32節)
「イエスはこれらのことを語って去られ、彼らから身を隠された」(36節)
「私は世を裁くためにではなく、世を救うために来た」(47節)
「私を遣わした父は、私が何を言うべきであり、何を語るべきであるかを私に命じた」(49節)
第一三章
「過ぎ越しの祭の日の前に」。
「あなたがたは私を師とか主と呼ぶ。そしてあなたがたがそのように言うのは正しい。私はそれであるからである」(13節)
「新しい掟を私はあなたがたに与える。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(34節)
第一四章
「あなたがたの心を騒がせることはない」等々、さらに以下において、「私は道であり、真理であり、生命である」(16節)
「主よ、われわれに父をお示し下さい。そうすればわれわれは満足です」(8節)
「私は父のうちにあり、父は私のうちにある」(10節)
「私のうちに留まっている父が業をなすのである」(10節)
「私を信じる人は、私がなす業をなすであろう。そして彼はそれらよりももっと偉大なことをなすであろう」(12節)
「というのは、私は父のところに行くからである」(12節)
「あなたがたが私の名において父に何を請い求めようとも、私はこれをなすであろう」(13節)
「私を愛さない人は、私の言葉を守らない」(24節)
「聖霊」、さらに以下において、「聖霊は私があなたがたに言ったすべてのことをあなたがたに教え、思い起こさせるであろう」(26節)
「父は私より偉大な方である」(28節)
第一五章
「私は真の葡萄の樹である」等々。
「あなたがたが互いに愛し合うことが私の掟である」(12節)
「人が自分の友人のために、自分の命を棄てるほど、誰もそれよりも大きな愛を持たない」(13節)
「私はもはやあなたがたを奴隷とは呼ばない。奴隷は主人が何をするかを知らないからである。さらに私はあなたがたを私の友人と呼ぶ。というのは、私の父から私が聴いたすべてのことを、私はあなたがたに知らせたからである」(15節)
「あなたがたが私を選んだのではなく、私があなたがたを選んだのである。それはあなたがたが行って、実を結び、あなたがたの実が留まるようにである」(16節)
「もし私が、彼らの間で他の誰もなしたことのないような業を行わなかったならば、彼らに罪はなかったであろう」(24節)
「彼らは私と私の父とを憎んだ」(24節)
第一六章
「これらのことを私はあなたがたに語った」、さらに以下において、「私が行くのは、あなたがたのためである。というのは、もし私が去らなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。もし私が去るならば、私はその者をあなたがたに遣わそう」(7節)
「その方は世に対して、罪について、義について、裁きについて明らかにするであろう」(8節)
「真理の霊があなたがたにすべての真理を教えるであろう」(13節)
「彼は私に栄光を与えるであろう。というのは、彼は私のものを受け、あなたがたに知らせる」(14節)
「」(15節)
「」(20節)
「」(21節)
「」(28節)
第一七章
「」、さらに以下において、「」(3節)
「」(11節)
第一八章
「これらのことをイエスが言ったのちに[イエスは弟子たちとキドロンの谷を向こうへ行かれた]」(1節)
「真理とは何か」(38節)
第一九章
「そのときピラトはイエスを捕らえた」。
「彼を十字架にかけよ、十字架にかけよ」(6節)
「イエスの十字架の側には彼の母と彼の母の姉妹であるクロパのマリアが立っていた」(25節)
「ヨセフはピラトに願い出た」、さらに以下において、「それは彼がイエスの死体を引き取るためであった」(38節)
第二〇章
「しかし、その週の最初の日に」、さらに以下において、「二人が同時に走っていった」等々から「彼は墓のなかに入って行った」(4-6節)
「マリアは墓の外に立って泣いていた」(11節)
「一週の初めのその日が晩になったときに」(19-29節)
第二十一章
「その後、イエスは再び現れた」、さらに以下において、「私は漁に行く」(3節)
「ヨハネの子、シモンよ、あなたはこれらの者よりもいっそう私を愛するか」等々から、「まことに、まことに私はあなたに言う」(15-18節)
「ペテロは振り向くと、イエスが愛していたかの弟子を見た」(20節)
「このようにして私は彼が留まることを欲する」(23節)
「あなたは私に従いなさい」(22節)
「イエスが行ったことは、この他にも多くある。もしそれらが個別的に書かれるならば、世界といえども、私は思うが、書かれるべきそれらの本を覆うことはできないであろう」(25節)